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死ぬほど辞めたいと願った接客業を辞めました

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死ぬほど辞めたい接客業をついに辞めました

昨日、宮崎の某小売業企業を退職した。

在籍期間は1年8カ月だったが、これからの人生が楽しみという気分が9割、もっとがんばれたんじゃないかという気持ちは1割にも満たない。

とてもすがすがしい気分だ。


接客業に就職した理由

そもそもなぜこの会社に就職したかも述べておく。

僕は前職のブラック企業的勤務にほとほと疲弊していた。

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社員旅行に行く集合前の雰囲気がこれである。

周囲を見回すと、デスクの上もカップ麺やマクドナルドのごみでいっぱいだ。そして、社員は歓談するわけでもなく、ひたすらにPCに向かって集中。顔色からして、明らかに疲れている人間が多い。旅行担当者に話しかけると、「一昨日から寝てないのに、、、」と愚痴をこぼしながら、旅行の行程について話してくれた。面接であったマネージャーは、出発の1秒前までずっとPCをカタカタやっていて、「オフィスを出ます!」の声とともにPCを閉じ、エレベーターに乗ってからまたカタカタやりだした。ビルを出ると旅行担当者が「準備がクズ」との理由で、ゴミだのバカだの死ねだのと激詰めされていた。僕は風水については詳しくないが、恐らく、いや間違いなく、あの時の
オフィスは「陰」の気にまみれていただろう。

こんなのを1年ちょっとやり続けたことにより、僕は精神的にも退職的にもぼろぼろだった。周囲が「丸1日寝なくても大丈夫」な体力満点のマッチョマゾヒスト(日本ではそれをエリート社員という)であふれていたため、貧弱な僕はリングから退却することを余儀なくされた。

しかし、マッチョどもにもまれたことで、ある程度のスキルは自分に溜まっており、転職ではそれが功を奏して大手上場企業から内定をもらった。

(面接でもブラック企業勤めであったことは包み隠さず述べており、ほぼすべての面接官が驚愕していた)

地方の接客業(上場企業)に就職先を決めた。

理由は4点。

  1. 募集枠が人事職であったこと
  2. 勤務先が宮崎だったこと
  3. 上場企業だったこと
  4. 給料が当時よりも上がったこと

まず、最も大きいのは人事ができること。転職時はこう考えていた。

ブラック企業で苦しみ、労働環境の苦を理由に退職した僕が人事(しかも未経験)になるってちょっと面白いと思っています。前職でのひどい労働環境を加味して、どれだけ新しい会社で労働環境を改善していけるか挑戦したいと思っています。また、マーケティングの経験を生かして新しい人材の量と質の向上に取り組んでいくつもりです。

また、宮崎というのもよかった。宮崎には先に移住していた大学のころからの友人がおり、彼の存在も僕の決断を強く後押ししてくれた。

さらに、上場企業であったこと。自分は「ブラック企業で働かない」ことを重視していたため、 勤務がブラック化しにくい1部上場企業で働こうと思っていた。残念ながら僕の勤める宮崎の会社は1部上場ではなかったが、地方企業は比較的帰りが早い。よって

、都内の1部上場企業よりも労働環境は悪くないと想像した。

極めつけは給料が上がったこと。人事の責任者が僕のことを高く評価してくれた結果だった。サラリーマンの平均給与額が300万の宮崎において、第2新卒のリスクの高い人材である僕を高い給与を出して採用してくれたことがうれしかったのだ。

こうして僕は、夢を抱いて移住し、異業種である接客業に転職した。

接客業をなぜやめた?

上記の話から、僕なりに考えぬいて決めた転職であったことは想像していただけるかもしれない。では、なぜ僕がそんな会社を辞めることになったかを話そうと思う。

最も大きかったのはこれだ。


人事職だと思って就職したら販売職だったこと

先述のとおり、僕は人事職で就職した。しかし、3か月後には販売職で勤務することになった。僕の「人間性を鍛えるため」という名目付きの人事であったが、その期日はいつしかなかったこととなり、僕は辞めるまでの1年4カ月をひたすら販売員として過ごした。

ただ、これだけ言うとあたかも会社がすべて悪いように見えるので、しっかりと書く。わずか3カ月の間に僕は遅刻をし、社用車をぶつけた。社長の悪口をチクられて、社長から直接叱られたこともあった。そうした経緯から僕の「更生」は始まったと聞く。

店舗に行くことでモチベーションは落ちていたが、最初の2カ月はそれなりに楽しめたと思う。椅子に座らない仕事も、顧客の声を聞き、生で感謝されるというのも、すべてが新鮮だったからだ。

何せ、お客さんの大きな荷物を持って車まで運ぶだけででたらめに感謝されるのだ。「東京から来たなら、私が宮崎のお母さんになるかいね~」と、温かい言葉をかけてもらったことは今でも覚えている。

しかし、転機はすぐに訪れた。マネージャーが1人、転勤になったのだ。その穴埋めマネージャー要員は、ほかでもない僕となった。理由は「給料が高いから」。経験の有無関係なく、マネージャーに任命された。ちなみにマネージャーに抜擢されるのは通常5年~10年ほど勤務した社員が対象で、当然店舗運営の基本はすべて熟知している前提となる。

放り込まれたのはおばちゃんもといお姉さまが幅を利かせるコーナーで、僕は仕事ができないことを理由にさんざん叩かれた。

仕事の効率はだいたい「店内の商品陳列場所の把握」と「倉庫の商品陳列場所の把握」で決まる。それは技術でどうにかなるものではなく、目で見て覚えなくてはならない。そして、一朝一夕でどうにかなるものでもない。さらに、僕はもともと手作業が苦手だったので、お姉さまがたの期待をことごとく裏切ることとなった。

僕がマネジメントで悩む最中、熊本で大規模な地震が発生した。

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当初は危険と恐怖にまみれた熊本応援であったが、店舗の作業から逃れる絶好の機会であったため、嫌がる社員を守るという名目で何度も立候補した。「現場で戦力にならない新人(=僕)を送り込んだほうが自店が回る」と進言し、店長も快くそれを承諾した。

本当に熊本の人たちを助けたいという気持ちもあったが、自分の持ち場から離れたいという気持ちも同様にあった。そうやって、職場のストレスを不器用な回避法でかわし続けていた

このころから、会社を辞めたいという気持ちが募り始めた。

人事でなかったら、僕はこんな会社に来なかったのだ。なぜ僕はペンキで汚れたおっさんに罵られながら働いているのだろう。

現場で袖を通すユニフォームまで、すべてを憎んだ。

「ちゃんとやってよ」

「なんでできないの?」

何度そういわれたのかわからない。しかし、できないものはできないのである。何度ちゃんとやろうと思ったかわからないが、ちゃんとやれた試しはない。やろうとするたびに、脳内で聞こえる「僕は人事で来たんだ、店で働くつもりで来たわけじゃない」という言葉。

今まで積み重ねてきたものを生かすべく、僕を適正配置してくれ。ちゃんと人事をやってくれ。適材適所という言葉を聞いたことがないのか。

(ちなみに人事時代、採用戦略の立案では「仕事ができすぎて怖い」という評価をもらったことから、それなりに役には立ったと自負している)

サッカーで例えるなら、ゴールキーパーで有名な選手に「なんでお前は点をとっていないんだ!」「なんでお前はドリブルがうまくないんだ!」と叱るようなものだと思う。

キーパーの存在意義はディフェンダーが抜かれた最後の最後の砦である。したがって、シュートを防ぐという一つの目的に集中するべきだ。

そうして積み重ねてきた経験を無視して「サッカーは点を取らなければ勝てない→点を取っていないやつは勝利に貢献していない」と、アクロバティックな視点でキーパーを批判してもどうにもならないだろう。そこからキーパーがドリブルの練習をして、シュートの練習をして、いったい何になるのだろうか。

お姉さまのストレスのはけ口(サンドバッグ)になる毎日の中で、僕は気づいた。

満足のいく仕事をするには、めちゃくちゃ転職を頑張り抜くか、自分でサービスを作るしかないのではないか、と。

新卒国立大学卒社員が半年で退職したことに対する激しい同情

そんな中、新卒の女子社員が半年で退職した。国立大学出身で、両親は公務員。きちんと勉強をやってきたという子だった。

彼女が言うには、能力値において、向上したと思えることはほぼ、なかったということだ。決められたことを決められたようにやることを正解とする会社の中で、新人が新たに生み出せるものは皆無だった。会社に対する貢献は「ボトムアップ的な提案」ではなく「トップダウン的な命令」をそつなくこなすことである。

やたらとITを嫌う社風であったから、データもくそもなかった。ここでリテールマーケティングを本気で学ぼうと思ったら、脳みその中に刻み込まれるくらいの時間と集中力で仕事に取り組まなければならない。毎日客がぐちゃぐちゃにしていく棚をせっせと掃除したり、入荷した品物を並べるような仕事を。僕にはそれだけの魂を込める理由を、この会社に見出すことができなかったし、彼女も同じだったと思う。

新卒の彼女は入社半年でボーナスをもらってやめた。彼女も自分の仕事の不毛さに気づいたのだろう。「私は花の水やりなんかをやるために大学を出たんじゃない」そう言ってパートのおばちゃんを泣かせていたらしい。この話は高卒の多い社内で相当な噂になり、「あの大卒の女はクズだ」「これだから大卒は」という認識がものすごいスピードで共有された。

しかし、僕は女の子に強く同情した。その理由は彼女の採用背景にある。もともと人事だったから知っていたのだが、彼女は販売職として自分の仕事を考えておらず、将来の企画職を見据えて就職を決めていた。そして、人事もその意見を尊重していた。

だから、「お前は販売だから当然これをやるべき」という指示に対して違和感を覚えずにいられなかったはずだ。反発もするはずだろう。

しかし、現場の社員からしてみれば仕事といえば販売一本なわけで、これをおろそかにしようとする新人は「矯正すべき異端者」としてしか映らない。

僕はテレビで眺める芸能人のスピード離婚を想起した。お互いの理解が足りなかった。そういうのは簡単だ。しかし、このケースでは、会社が新卒にもう少し歩み寄ってやるべきだったのだと思う。「色んな企画ができるよ」「どんどん提案していいよ」甘い言葉で採用を成功させ、それで学生が釣れた途端、そんなのリップサービスだよとでも言わんばかりに新卒を現場に投げ込む。あんまりだと思う。

上司からの「マネージャー論」に愛想をつかした

さて、話題は僕の話に戻るとする。マネージャーでありながら下っ端の動きしかできない僕に、上司からのプレッシャーも強まっていく。

僕は何回か爆発した。

上司から言われたこともむかつくことも腸内細菌を数えるくらいに無数にあるが、結論から言うと「滅私奉公して会社と殉職せよ」という内容。もはや僕はそんなのクソとしか思えなかった。会社と運命を共にするなんてあまりにも魅力がない話である。

さらに、僕が裁判をすれば勝てそうな会社の悪口もあるのだが、それは一旦書くのをやめておく。

(もしかしたら今後書くかもしれない)

社内の大きな行事が終わった月の終わり、4月20日で僕は退職となった。

接客業で働いて、メリットはあったのか

さて、僕が今回得たものについて紹介したい。先述のとおり、スキルはほぼ上がっていないと思うが、得たものはいろいろあったと思う。

高卒の人と働けたこと

両親が大卒で、偏差値至上主義(「お前は最低でも地方国立大学」が口癖だった) だったことで、僕もその思想に大きな影響を悪い方向に受けて、高卒の地元の友達と絡むことなく大人になってしまった。

だから、高卒というとなんとなく、少し悪い方向のイメージしかなかった。池袋ウェストゲートパーク。素行の悪いあんちゃんと、15歳から煙草を吸っている汚い金髪の子持ちギャルが想起されていた。

だから、高卒の多い職場にいたことで、多くの発見があった。定時制高校出身の、ものすごくしっかりした女の子や、偏差値30台だけどものすごく頭の回転の速い子。社内の商品知識テストで僕(ADHDで暗記が得意)と同点になった商業高校の男の子(197/200点で全社1位)。

僕が勝てないところがあまりにも多く、尊敬すべき点も同じく多かった。彼らは「頭が悪くて大学に行けないかわいそうな子」ではなく、単純に「テストのとき、勉強にモチベーションが上がらなかっただけの子」だった。

僕らが偏差値上がった下がったで 一喜一憂しているとき、彼らはそれだけ友人と対話し、恋をし、相手のことを考えて生きてきた。多感な時期にそれを繰り返したことで生まれるその厚みは、僕にはない。

この事実に直面して、僕の生まれついての偏差値至上主義ががらがらと崩れた。偏差値を理由に人の価値を決めていくことが、どれだけ不毛なのかを知ることができたのは、今後の人生で大きいと感じた。

挑戦しない自分を追い込むことができた

挑戦恐怖症気味な僕は、あのまま東京で暮らしていたら、一生東京の会社員で終わっていたことだろう。

しかし、挑戦の面白さを教えてくれる出来事が多々あり、僕は次第にのめりこんでいった。

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1日20時間働かされることはなかったので、ブラック企業にいたときよりも、時間は腐るほどあった。だから、その時間を潤沢に使って様々な挑戦をすることができた。

地方移住はホットワードだから、今、移住に挑戦することはちょっと珍しかったり格好良かったりするかもしれない。しかし、地方に移住しても、普通の会社員で終わってしまったらただの「田舎のおじさん」である。それは絶対に避けたかった。

宮崎の会社に就職して、それからまた東京で転職活動。そうしたら確実に「負け組」な転職活動しかできない。そう思ったことが、僕の無謀な挑戦をさらに後押しした。

自分のやりたいことを大学でプレゼンしてきたりもした。準備を通して脳内のツボをたくさん押された気がした。

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思えば、仕事そのものからではなく、仕事を取り巻く人、そして地方というフィールドから学んだことが多かったように思う。

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