転職先はブラック企業第16話はこちら
事業部が潰れた!
結論から言おう。僕の事業部が潰れた。
わかる。「あまりにも急すぎないか」と言いたいのだろう。でも、僕らだって同じ思いなんだ。そうだ。急すぎたんだ。これがベンチャーなんだ。
ITは流れが早い。ベンチャーは意思決定が迅速だ。そういう話をちらほら聞く人も多いだろう。それでも限度というものがある、はず、なのだ。でも、ないのだ。限度なんて。
事業部が潰れるきっかけから、実際に潰れるまではせいぜい4日とかからなかった。
何だ。何だこの気分は。
君に言わせれば、問題は諸々他にもあって
あの日はただのきっかけだって
わかってるよ
失恋ポエマーもびっくりの急展開じゃないか。なんだこの失恋劇は。そっち(事業)が別れるなんて言ってもこっちは心の準備もできていないんだ。
とにかく聞いてくれ。敗残兵の回顧録を。
ただでさえギリギリな事業部に、CMSシステムの営業という新たなミッションが加わり、僕は営業の中でドリームプラン社へのいざこざや展示会への参加など、仕事が増えていった。
僕らの本来の仕事は、顧客(主に「頭脳警察」社)のクリエイティブ制作。サイトやバナーなどを設計し、制作するのが仕事だ。
だから、営業をやり始めたことのしわ寄せは、当然制作の方にいく。
ここで制作という仕事の構造を簡単に説明すると、制作というのは「お客さんの作りたいモノ」を作るわけなので、「作りたいモノは何か」をきっち決めないと動けない仕事である。手を動かす仕事に見せかけて、結構コミュニケーションがいるのである。
「デザイン案、これでいいですよね?」
「写真、多分違うのが良いと思うので、もう一枚ご用意いただけませんか?」
「このタグに入れる文言はこちらでいいですか?」
こういった内容を五月雨式にメールする。毎日。仕事の半分はもはやメールである。
もちろん中にはメールと言えど、超緊急の案件もあったりするので、(件名に【大至急】とか書いてある)見敵必殺、サーチ・アンド・デストロイ的にすぐヤるべき案件もあったりするから気を抜けない。
そんな制作のコミュニケーションの時間を、営業はごっそり奪っていく。そりゃあもう、ごっそりだ。牛丼のカウンターに座ったら、隣のおっさんが紅しょうがをごっそり盛っていて、1回では飽き足らずに立て続けに4,5回ほど盛りまくり、紅しょうがポットをカラにしたりすることもあるだろう。あれだ。あの衝撃を思い出すんだ。
ちなみに僕はこの類の紅しょうがポットスッカラカンおやじによくあたる。紅しょうがを食べたいのに、ポットを補充してくださいとは言いにくい。かと言って、補充してくださいと言ったとしても、隣のおやじにあてつけみたいに思われそうでなんとも言えないのだ。
そんなことはどうでもいい。とにかく、制作のコミュニケーション時間が足りなさすぎるのだ。
この変化は制作の受注状況にモロに響いた。モロに露呈する減益ぶり。
そもそも、紹介案件ばかりで面倒くさいクライアントばかりあてがわれていた僕らの事業部は、ただでさえギリギリな工数対粗利が急降下した。
僕らが働きまくっているにも関わらず、あんまり利益出ていないよね。Excelの管理票はそう示している。当然だろといいながらレッツノートをかち割りたいが、そうすると僕の給料もかち割り氷のように爆砕するので何もできずに唇を噛むしかない。
度々社長の前に呼び出される僕ら。
「パフォーマンス残してないんだからお前に給料出さねえぞ」
と、詰められる事業部長。僕らの精神は、水に1分間つけておいたトイレットペーパーのカスのようだった。何が言いたいかというと、僕らの精神は限界だったということだ。
それに輪をかけて僕らを貶めたのは、頭脳警察SNS事件。
頭脳警察の社内SNS(頭脳警察社の全コンサルタントが見てコメントをするルールになっている)で、僕らが酷評されたことだ。しかも、これが頭脳警察のチームリーダーから直接うちの社長の耳に入ったから恐ろしい。
オフィスでワンピースの最新話を読んでいた社長は烈火のごとく怒り狂い、ジャンプを事業部長に投げつけた。ジャンプの角は事業部長の頬に当たったが、彼は声にならない叫びを、小さく、「ウグッ……」とあげて、こらえた。僕は彼の精神に畏敬の念を覚えた。
「お前、灰皿に捨ててあるタバコ全部ミキサーにかけて飲め。飲み干せ。さもなければやめろ。てかパフォーマンス上げてないなら給料返してからやめやがれ」
僕らはひたすらに、すみません、すみませんと連呼した。
この事件において、僕らの精神は浸け置きのトイレットペーパーから、ハエたたきで叩かれた後にティッシュでくるまれて捨てられた潰れ気味のハエ程度に成り下がった。何が言いたいかというと、僕らの精神が限界だったということだ。
最後に。トドメは身内からだ。
社長お気に入りの金髪ギャルデザイナーが、もうやめたいと言い出した。僕らディレクターが機能していないことを理由に、だ。
確かに、僕らはきちんとできていなかった。完璧ではなかった。クライアントへの連絡も遅れたし、アポ数も十分ではなかった。
それでも。僕らは頑張ったんだ。UI、UXをわからないなりに勉強したし、定時で帰りたがるデザイナーをハーゲンダッツでなだめたりもした。朝日を見ながら、白目を剥きながら、鼻血を出しながら、1日20時間働いた。
それでも、
「もう、クリエイティブは潰すから。解散。お前らをどうするかは考える」
との、一言。
この一言において、僕らの精神はティッシュにくるまれた潰れかけのハエからリストラされたおっさんが公園で抜いた鼻毛で作った鼻毛文字「うんこ」に成り下がった。何が言いたいかというと、僕らの精神が限界だったということだ。
しかし、
それでも、
僕のブラック企業生活は続く。
事業部は解体され、僕のやっていたサイト制作を扱う部署はなくなった。
……かに思えた。
しかし、僕は依然として、むしろ以前よりも孤独に、前部署の仕事(サイト制作、SEO、そして頭脳警察とのやりとり)を続けなければならなかった。
任されたのは敗戦処理
新しく任された僕の仕事は「コンサル業務」と「敗戦処理」だった。
コンサル業務というのは、簡単に言えば企業に対してネットの先生をやることだ。
サイトをそもそも持っていないとか、持っていたとしても1998年くらいに組んだような化石化したサイトしかないとか、逆にサイトにたくさん金と人員を割きすぎて、雪だるま式に運用コストが膨らんでしまっているとか。こういう企業が世の中にたくさんある。当然、経営者としてはこれらをどうにかしてネット的にイケてる次世代テクノロジー企業になりたいと思っていることが多い。
したがって、僕らはそういった「ネットを使いこなせていない企業」に対して、ネットを使ってどう売上を伸ばすか、コストカットするかをコンサルしている。これが前者のコンサル業務だ。
ちなみに「コンサルを受けるとテクノロジー系企業の仲間入りができる」と冬季オリンピックのスキージャンパーもびっくりな(論理的)飛躍を遂げる経営者も中にはいるが、こうした方には要注意である。
なぜなら、ウェブのコンサルをしたことによって企業の見た目や売り方が劇的に変わるわけではないからだ。せいぜいホームページがきれいになるくらいである。コンサルにおいて重要なのは見た目ではなく中身の分析だったりするので、地味すぎる作業にしびれを切らした経営者からは「何でこんなに地味な作業しかしないんだ!もっとこう、バーンとかブオーンとかやりたいんだよ!ユーチューバー呼べよ!」みたいに言われることも稀にある。そういう時、僕らは夕飯に食べるラーメンはどこの店にするかを考えながら「そうっスね」とか言ってやり過ごしたりする。
そして、敗戦処理というのは、「潰したサイト制作の部署で、残っている制作案件を全て片付ける」ことを指す。
出口戦略という言葉がある。軍隊が撤退する際に、どれだけ戦力を疲弊させずに撤退できるかを追求した戦略である。僕の会社はこれを重視した結果、潰した事業部の敗戦処理に人員は割かないという方針を打ち立てた。したがって、僕は上司を抜いた形で残っているサイト制作業務をこなすようになった。
普通のテンションで言ったが、これはもうすごいことである。単純に1人、人員を抜かしながら新しいコンサル業務もこなすのである。
「出口戦略に基づき、高効率での事業撤退処理をこなしてくれ」
僕の新業務任命時に、副社長の青井が放った言葉である。言葉ヅラは美しい。だが、この美しさは危険だ。この美しさを色で例えるなら「雨上がりの虹」ではなく、「ヤドクガエルの皮膚」に近い。一見キレイだが、極彩色をまとう理由は一つ。毒を仕込んでいるからである。危険信号なのである。ヤバイから近づくなよというサインである。
「はい、心機一転頑張ります」
僕は危険信号だと知りながら、特攻覚悟で突き進んでいかねばならない。もはやヤケである。しょうがないのである。こういう運命なのである。
そんな敗戦処理の中で、僕はあるクライアントと出会った。
その名をレクサス・マーケティングというのだが、これまた面倒な案件だった……
レクサス・マーケティング。東北にある、貴金属を扱う会社である。頭脳警察を通しての紹介であった。
主な仕事はジュエリー店の運営と、最近アツくなっている貴金属買取・販売業。金が高騰するこの時代、貴金属買取は儲かるらしい。
そんなレクサス・マーケティングの依頼を受けたのは8ヶ月前からだった。「サイト制作を4本やってほしい」という依頼。
1社からごっそり4案件ももらえるのはありがたいことだ。営業担当はヨダレを垂らしながら、喜び勇んで受注した。案件の納期もうやむやにしたままで。
頭脳警察案件の闇
ところで、頭脳警察が絡んだ案件はやりとりが少々面倒くさい。なぜなら、制作案件ができたときには
自社→頭脳警察→クライアント
と、僕らは頭脳警察にまず制作物を見せ、OKだったら頭脳警察がクライアントに見せる。
逆に、クライアントから指示がくるとするならば、
自社←頭脳警察←クライアント
という流れで処理していく。
これは頭脳警察が「案件のクオリティを管理するディレクター」として入っているからである。「頭脳警察がいることで納期と品質が担保される」というサービス論理に基づいた布陣なのだ。
しかし、この案件においては、この布陣が完全に裏目にはたらいた。
音信不通の担当
案件を受注した後、頭脳警察の担当コンサルタントとやり取りを始めるはずだった。しかし、待てど暮らせど連絡が来ない。サイトを作る前にも、まずは、頭脳警察とレクサス・マーケティングとの間で作ったワイヤーフレーム(これから作るサイトの骨組み)が必要なのだ。
3日経っても何も連絡がなかったので、こちらから確認を入れた。
恐れ入ります、レクサス・マーケティング様の案件でお世話になっているしょうきちと申しますが、ワイヤーフレームは完成しておりますでしょうか?
お手数ですが、完成していたらお送りいただけますと幸いです。
こんなメールを送ってみたのだが、連絡がない。
連絡が何もないまま5日が経過した。取り急ぎ、先程のメールを再送する。しかし、ない。連絡が、ないのだ。
向こうも忙しいのだ。何度も連絡して頭脳警察を怒らせると売上に響くので、もやもやした気持ちを抑えつつも、待つ。待つしかない。
焦る僕。しかし、実は頭脳警察の案件はこういう事例がいくつもある。連絡がないので頭脳警察の本社に行って直接確認してみたところ、「実は頭脳警察とクライアントの契約が終わっていたために、うちに依頼が来なかった」なんてこともある。頭脳警察も、朝まで仕事をするようなブラック企業なのだ。情報をこちらに回せないほどパツパツなことはよくある。
上司に相談し、ここでは待つことにした。
でも、仲介している企業とクライアントの温度感が違うことって、往々にしてあるよね。
「頭脳警察は信用出来ませんなので、直接やりとりさせてくださいませんかな?」
珍妙な件名のメールが届いたのは、レクサス・マーケティングの案件を受注してから1ヶ月後のこと。
とうとう、僕らとレクサス・マーケティングを仲介しているはずの頭脳警察社からは、レクサス・マーケティングの案件について一切連絡が来なかった。したがって、僕らはレクサス・マーケティングの存在をほとんど忘れかけていた。
何も音沙汰が無いということは、レクサス・マーケティングも焦っていないのだろう。便りのないのは良い便り、メールがないのは良い案件。自身に言い聞かせながら、残っている案件を潰していた。
そんな中、レクサス・マーケティングより、当社に直接メールが来た。見出しは先述の通り、
「頭脳警察は信用出来ませんなので、直接やりとりさせてくださいませんかな?」
である。しかも、メールの本文には、
「連絡をお待ちしております」
のみである。担当者の名前すら、ない。
この極めて珍妙なメールに対して、僕は心底頭を悩ませた。丁寧に書きたいのかバカにしているのか、それとも高度に発達したIQを駆使した皮肉なのか。どちらにしろ、送り手は何かしらの異常性をはらんでおり、その異常性によって生み出されたメールは確実に僕を蝕んでいた。
ああ、どく状態だ。これは、RPGにおけるどく状態だ。果てしない状態異常だ。バブルスライムとかベトベトンとか虫っぽかったりゾンビっぽいやつが使ってくるアレなのだ。読む度に精神を滅入らせるこのメールは、歩く度に体力を消耗させる毒そのものである。
脳みそのシワを、寄せては返すさざなみのように震わせて、超絶的に思考させる。しかし、無意味だった。この意味深メールの前には僕の思考など、パック寿司におけるプラスチックたんぽぽのように無意味であった。
とりあえず、このメールが来たことを頭脳警察に連絡したい。が、頭脳警察は信用出来ないとクライアントが言っている以上、この両者の間には何かがあったに違いない。簡単に連絡することはできないのだ。よって、僕は音信不通のコンサル企業と怪文書をよこすジュエリー会社の板挟みに襲われた。
上司に相談するなどして、とりあえずクライアントに直接連絡を取ることにした。本来であれば、頭脳警察をさしおいての直接連絡はビジネス的にご法度である。しかし、この板挟みを脱するにはこれしかあるまい。
会社の携帯を抜いて、ダイヤルしてみる。数回のコール音の後、出てきたのは……
いきなりクレーム
「お忙しい中恐れ入ります、頭脳警察社よりサイト制作の依頼を頂いている会社の者ですが」
「お世話になっております。レクサスのチャンと申しますが、貴方様たちは、とてもひどいですよ」
専務取締役を名乗るチャンという男は、非常に憤慨していた。出た、いつの間にか、自分たちの知らないところで勝手に炎上しているパターン。
「申し訳ございませんが、当方、状況を良く把握していないものでして。よろしければ、詳しくお話しいただけないでしょうか」
「あなたたちは当社を、なめて、いらっしゃるのでしょうか。私はとても失礼だと認識します」
チャンはグーグル翻訳を読み上げるような精度でまくしたててくる。
僕はチャンをなだめるように、少しずつ話しを聞いていった。すると、驚くべき事実が明らかになっていった。
「頭脳警察は、あなたがたがサイト制作にとりかからないと、そういう風に言っていますよ。あなたたちを制作会社に選んだ頭脳警察も悪いが、働かないあなたたちはもっと悪いのだ」
「そんな。私たちはサイト設計の情報をずっと待っていました。でも、頭脳警察から情報が来なかったのです。何度も催促しましたが、返事が来ませんでした」
「そんなことは有り得ませんね。頭脳警察には何度も連絡しました。それも、毎日。しかし、制作会社が何もしないという一点張りでしたよ」
食い違う主張。チャンはうちが完全に悪いと思っている。このまま話していてもキリがない。これは、頭脳警察の方から説明を求めるしかない。
「わかりました。私達も全てを理解しているわけではありませんので、一旦、頭脳警察からの連絡を待ちます。それからチャン様に連絡を差し上げますので、どうかお待ち下さい」
そう言って電話を切った。どっと押し寄せる疲労感。勝手にこちらが悪者にされているのだ。いっその事、案件を放り出してしまいたくなる。しかし、4本分のサイト制作フィーは全て回収済みだ。逃げ出すにも逃げ出せない。
とりあえず、音信不通のコンサルタントに事の顛末を連絡しなければならない。僕はメールを立ち上げた。レクサス・マーケティングのチャンから連絡が来たこと、制作会社が動かないから制作が進まないとチャンが主張してきたこと、事情を頭脳警察とすり合わせた上でチャンに説明する必要があるということを簡潔にまとめて送信する。
すると、音信不通のコンサルタントから5分で返事が来た。
しょうきち様
お世話になっております。
今回の件について、御社には非常に不信感を覚えました。
なぜ、勝手に当社のクライアントと連絡を取ったのでしょうか。
連絡すること自体が筋違いですし、万が一連絡するとしても、当社に一本連絡を入れるのが当然だと思います。
クライアントを混乱させないでください。
僕は血が煮えたぎるのを感じた。何様なのだろうか。
こいつが一切返事をよこさなかったメール履歴をキャプチャに取って、レクサス・マーケティングに送りつけようかと思ったし、実際にキャプチャに取るまでをやった。しかし、これをやったら頭脳警察の面子は丸つぶれである。もう彼らとのやりとりはできなくない。既に確保している案件も解約となり、売りがたたなくなる。そうなれば、社長からの責め苦をくらうのは僕である。
申し訳ございません、こちらの身勝手な行動により、御社とクライアント様にご迷惑をおかけしました。
震える手でタイプする。クソが。お前のせいで、お前のせいでこんなに惨めな思いをしているんだからな。死ね、死ね、死ね。どす黒い気持ちをメールに込めて、送り込むように送信ボタンを押した。
自分のことで手一杯なのに、他人のことなんて気にしちゃいられない。ましてや仕事をくれてやる下請けのことなんてどうだっていい。人に優しく。人にされて嫌なことは人にしない。道徳の時間で習った当たり前を、僕らはすっかり忘れてしまっている。仕事は恩義と責任のなすりつけ合いで、なすりつけられた側は申し訳ございませんとありがとうございますを呪いのようにつぶやくしかないのだ。
結局、僕が悪いことになりながら、仕切り直しということで案件はスタートした。頭脳警察の担当は、新卒2年目という中谷。僕からの連絡をひたすらに避け、案件が滞った原因を僕になすりつけた男だ。青いスーツの着こなしだけは決まっている。
頭脳警察の会議室で、僕らはサイト制作の案件のミーティングをしていた。もっとも、ミーティングというのは名ばかりで、実質的にはウェブについて何も知らない中谷の戦略を代わりに練ってやる講習会であった。
彼のサイト制作の進行スケジュールはずさんを極めていたし、サイトのワイヤーフレームはExcelを情報の授業でさわった中学生の作品に等しかった。道理で提出できなかったわけだ。僕が彼の先生で、彼の仕事を評価できるなら「もっとがんばりましょう」の百段階ほど下位評価である「はなくそ」というスタンプを押してやりたい。
「中谷さん。そちらもご多用でしょうから、ワイヤーフレームに関しては僕に任せてください。こちらで作りますので」
「そうですね。本来であれば、制作はそっちの仕事ですから」
「あと、全体でこんなに短期間では制作できませんので、せめてあと3ヶ月半は下さい」
「仕方ないですね。クライアントも急いでいるようですから、お願いしますよ。3ヶ月半ですね」
仕事が出来ないくせに、いちいち鼻につくような言い方。なぜ、こうもふてぶてしい態度を取れるのだろうか。激しいスイサイドを希望する。大焦熱地獄から転がり落ちて無間地獄にめぐり愛だ。犬死にでも猫死にでも豚死にでもパンダ死にでもいい。やつが不幸になればいい。
しかし、中谷がやるべきであった仕事を流れで引き受けてしまったので、僕は中谷を呪う前に、馬車馬のように働くしかなかった。
それからレクサス・マーケティングと頭脳警察とうちの3者交えてのメールのやりとりが始まり、ようやくワイヤーフレームが送信された。僕が作ったものだったが、中谷の面子を守るために、ワイヤーは事前に中谷に共有されている。だから、それは、あたかも彼が制作したかのようにクライアントに提出された。さも自分が努力したかのように見せる中谷のメールを眺めながら、僕はカップラーメンをすすった。
1時間語、レクサス・マーケティングのチャンからの返事。
ありがとうございます。ワイヤーフレーム、とても、良いと思います。これで進めてください。
確か、納期はあと2ヶ月でしたね。これ以上は縮められませんので、よろしくお願いしますと思います。
僕は高圧洗浄機のようにラーメンを吹き出した。3ヶ月半必要だって言ったじゃねえか。
「3ヶ月半は必要だって申し上げたと思うのですが、チャン様はあと2ヶ月と仰っていますよ」
「クライアントがそういうのだから、そうなのでしょうね」
「……」
他人事かよ。こいつの価値は何なんだよ。こいつのコンサルフィーは国境なき医師団にでも寄付したほうがマシなのではないか。
「しかしですね、我々もギリギリの工数で動いています。3ヶ月半という約束でこそGOは出せますが、2ヶ月なんて無茶です」
「本当に、無茶、なんですか?」
中谷はべらぼうに凄みをきかせていう。
「じゃあ、あなた方は1サイトを制作するのにどれくらいの時間が必要なんですか」
「おおよそ1ヶ月はかかります」
「嘘ですね。この前、ミーティングで私に教えてくださった話では、作業はせいぜい設計、デザイン、コーティング、テキスト挿入、ドメインとサーバーの手続きをしてから最終チェック。このくらいなはず。これでどのくらいの作業時間になるんですかと聞いています」
「実作業時間で言えば、30時間もあれば……」
「ほら。たった30時間でできるのに、もったいぶって1ヶ月なんていう。クライアントが待っているというのに、自分たちの都合で案件を引き伸ばしたりして」
冗談ではない。
「ちょっと待って下さい。今言ったのは実作業時間です。本来の工程では、この合間に御社やレクサス・マーケティング様とのチェックも入ります。チェックしてから気に入らないのであれば、戻って修正しなければなりません」
「でも、たった30時間でしょ。2倍にしても60時間。何日か徹夜でやればいい話じゃないですか」
中谷は嫌味ったらしくため息をついた。
「朝から翌朝まで馬車馬のように働いてくれると聞いたから案件をよこしたのに、こんなにひ弱だとは知らなかった」
そのとき、僕の脳内では、瞬時に2つの選択肢が交錯した。一つはブチ切れて2ヶ月の納期を突っぱねる。もう一つは、それこそ馬車馬のように2ヶ月で乗り切る。中谷はゴミだが、やつの挑発に乗って突っぱねればこの案件はクローズする。売上も返金扱いになるだろう。サイト4本を2ヶ月で納品する案件は相当な地雷だが、それでも食いつきたい零細制作会社はこの新宿だけでさえゴロゴロいる。
それに、以前やられたように、頭脳警察の社内SNSで「納期を守れない制作会社」として晒されでもしたら、まずい。
「やります。2ヶ月で」
交渉力のない僕には、これしかなかった。
ちなみに、こうして会社の売上を守り、耐え抜いたことは全く評価されない。社内に帰った僕を待ち受けていたのは、賞賛ではなく、むしろ罵声だった。
「嘘でしょ。こんなサイト4本を2ヶ月って無理に決まってんじゃん!あたし残業やんないからね~。あ~怖っ」
デザイナーからはこう言われ、疎まれる。しかし、どうしろというのだ。このめちゃくちゃな売上主義の会社で、案件を選べとでも言うのか。
1日あたり20時間勤務で回っている僕の業務ペースと、1日あたり8~9時間で上がるデザイナーのペース。デザイナーの(相対的)短時間勤務で売上を守るには、1件あたりの単価をぐんと上げなければならない。しかし、うちのデザイナーの経験年数は、平均して3年に満たないのだ。
はいはい、僕がやればいいんでしょ。
そういうわけで、僕もコーティングに加わるようになった。
3ヶ月半の納期を2ヶ月に縮められた日の翌日、僕は日付の変わるギリギリでデザインの初稿を提出した。
他の案件もモリモリ入っている中、デザイナーを渾身のハーゲンダッツで買収し、9時まで残業してもらっての提出だ。僕は電子メールに魂を込めた。この魂が光ファイバーケーブルを通じて中谷のパソコンをあたたかい緑の光で包み込み、地球に衝突しようとする隕石すら不思議な力で跳ね返されるような奇跡=納期延長が発動されることを切望した。
中谷はあれほど急がせたにも関わらず、翌日の夕方6時にメールを返してきた。
「いいと思います。先方に提出します」
こんな返事なら朝イチで返せよと思う。そしてさらに3日後、ようやく中谷からのメール。
「先方からOKが出ました、これでコーディングしてください」
待ちくたびれた僕が化石になるかどうかの瀬戸際で、デザインのGOサインが出た。
返信のメールにて、承知いたしました、の後に「今回ご指示をいただくまでに72時間のロスタイムが発生しましたので、目標の30時間以内の納品は不可能になってしまいましたことをご了承下さい」と打ち込もうとしたが、送る直前でやめておいた。
他の案件をこなしつつ、レクサス4案件を進めていく。が、そこでどうも気になることがある。中谷のチェックが遅いのである。
頭脳警察社で中谷がチェックをするのに1日半、クライアントがチェックをするのに3日ほどかかっている。このペースではチェックだけで20日以上のタイムロスだ。馬鹿げている。これではこちらが急いでいる意味がない。こんな理由で納期遅延になってドヤされるのは耐えられないのだ。
「いつもチェックありがとうございます。お忙しい中誠に恐縮ですが、納期達成のため、チェックの時間を早めていただくことは可能でしょうか。1時間以内とは申しませんので、1営業日以内でチェック頂けると大変助かります。また、クライアント様へも、チェックの優先度を高めて頂けるよう、お話しいただけましたら幸いです」
黙っているのも忍びないので、やんわりとメールを送る。
これで「わかりました!」と爽やかなメールをくれるものならこちらもすんなりと案件を進められるものだが、そうはいかない。
「承知しました。しかし、クライアント様に指図するというのはいただけませんね。御社の制作物を経営陣で精査して頂いているので、そこにもっと早くしろ等とケチを付けるわけにはいきません」
と、中谷。僕は顎をさすりながらため息をつく。別にいちゃもんをつけようとかケチをつけようとかそういう気持ちは毛頭なく、単純に、物理的に時間が足りないのだ。そしてその原因は緩慢なチェック体制なのだ。それがなぜわからない。
「メシいってきまーす」
気分転換に早めのメシ。セブンのカップラーメンを買う。蒙古タンメン中本。このコク、この麺、この辛さ。カップラーメンの中で一番納得できる商品だ。……すると、社長からの電話。素早く携帯を取る。
「お前、今どこなの?」
「はい、コンビニです」
「レクサスなんちゃらって会社から電話かかってきてるんだけど」
「すみません、すぐ行きます!折り返しで伝えておいてください!」
レジに並んでいたら社長の拳がとぶので、中本を置いて社内にもどる。エレベーター待ちの時間が惜しい。扉が開いた瞬間に素早く乗り込み、しまるボタンをプッシュアンドゴーイングアップ。チン、の音と同時にオフィスへ駆け戻る。
「すみません、お待たせしました」
社長室にかけこむと、社長は相変わらずジャンプを読んでいた。
「しょうきち、何かお客さんめちゃ怒ってたみたいだけど、何なの?」
「へ?レクサス・マーケティングがですか?」
「そうだけど。なんか揉めた?」
「いえ……揉め事はしていません」
「ったく、面倒なことすんなよ」
「すみません」
「あとさ、コンビニ行くならワンピースの新刊買ってこいよ。気が利かねえな」
「す、すみません」
僕は手のひらに「ワンピ 新刊」とメモしてから、レクサス・マーケティングに電話した。チャンが出たが、いつものグーグル翻訳に忠実な日本語が、感情的になったことで破壊的にわかりづらくなっていた。
さて、もしかしたらお察しの方もいるかもしれないが、レクサス・マーケティングが怒っていたのは、中谷の告げ口が原因であった。僕がレクサスのチェックが遅いと批判していたと、中谷に吹き込まれたらしい。
「いえ、そんなことは。違うんです、誤解です」
僕の必死の30分の釈明に、チャンも何とか平常心を取り戻してくれた。
「わかりました。御社がそんなことないと誓うなら、理解します」
「ありがとうございます。私が申し上げたのは、現状3日かかっているチェックが少しでも早くなればありがたいな、と言ったまででして」
「3日?私たちは即日でチェックしていますはずです」
「そうですか……いつも私どもに連絡がくるのは3日ほど経ってからなんですよね……」
言いかけて、僕は気づいてしまった。
メシの時間に落ち合って、久々に同僚のマゾ彦とラーメンをすすった。彼とは会社の総会で漫才をやるために、午前3時から踊り場で稽古をやった仲である。
話題は当然、頭脳警察の問題児・中谷について。僕はメールを見せながら言う。
「これってどう思う?俺結構納得できないんだよね」
「とりあえず、クズだよねえ~」
「だろ」
「でも、うちって下請けになるわけでしょ~?しょうがないよねえ~」
「俺はそこが気に食わないんだよな。下請けだからってここまで理不尽なことってされてもいいのかよ」
「そういう無茶を聞いてくれるものさあ~、うちの会社の価値ってことに解釈されてるんじゃないの~?」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんだよお~」
なんだか要領の得ない会話だったので、僕はマゾ彦が目を離しているスキに彼のラーメンに酢を投入した。4秒間の注入により、彼のラーメンは酸辣湯麺に変化したが、彼は気づかずにラーメンをすすった。
そしてバキュームのようにむせた。
「しょうきち~、今ラーメンに何かした~?」
「してないよ」
「なんかすごい酸っぱいんだけど~」
「ラーメンてそんなもんだよ」
「そんなもんかなあ~」
「そんなもんだよ」
酸辣湯麺を全てくらい尽くしたマゾ彦のマゾ加減に敬意を表しつつ、店を出た。マゾ彦はそのまま外回りに出て、22時に帰社するという。頑張れ、マゾ彦。
季節は11月にさしかかり、ビル風がきつくなってきた。そろそろコートの欲しくなる季節だ。
4月に入社してから夏が過ぎ、秋を乗り越え、冬にさしかかろうとしている。意味不明なこの会社で何とか半年を耐え抜き、夢中で戦ってきた。
耐え抜いた先に何があるのか、それは誰もわからない。わからないのに戦うというのは、辛い。上場までは頑張ろうと思うのだが、上場予定は3年後の9月。遠いのだ。
時々、プールに沈められたまま、見えない力で抑えられているような感覚に襲われることがある。焦りと窒息。成長のために働いている、持ち株還元のために働いている。その自己暗示のまやかしが極度の疲労によってほつれ、その境目から空虚さがのぞきこんでくるとき。
朝まで働いても倒れない「鉄人」という存在。たとえば副社長の青井の思考体力は異常で、深夜3時になってもフルスピードでタイピングする。それも真顔で。目を離すと30分ほど机に伏せているが、すぐに起き上がり猛烈に仕事を始める。
入社当時は追いつけ追い越せで頑張ってみたが、どうにも無理だと気づく。「体力を持たない自分」は「体力の永続する鉄人」に遺伝子レベルで負けていて、永遠に勝つことができない。1流になりたいと願って入った会社で、生物学的に自分が2流なんだと気づく。絶望。
中谷は何が楽しくて働いているのだろう。東証一部上場企業で、丸の内で働きながら何を思っているのだろう。スキルも何もないのに下請けを見下すような行動をとりつつ、
案件のチェックすらまともにできない。彼らのような人間が、新卒就活セミナーなんかで仕事を語るのだろうか。
自分が壊れかけても走らねばならないうち、壊れているのか壊れていないのかわからなくなるときがある。
中谷のチェックは一向に早くならず、牛歩の歩みを極めた。それを象徴するがごとく、自社内では「中谷待ち」というホットワードが生まれた。
「あいつさ~、マジ何もチェックできないのに返事クソ遅いよね~。チェックできましたとか言っておいて、アタシが自分で見返してたらリンク飛んでない、みたいな。ま、見つからなかったからアタシとしてはいいんだけど~」
うちのギャルデザイナーも、中谷に対して厳しい。
「中谷待ちで出たロス時間、計測しといたほうがよくな~い?多分この案件、このまま行けば納期ギリギリだよ?クライアントが一回でもデザインでごねたら一発で納期遅延だからさ~」
その通りだ。こちらの奮戦をよそに、中谷はのんびりと返事を返してくる。接待だの分析業務が忙しいだの、何かと言い訳をつけて。そのおかげで納期はこちらがどれだけ頑張っても、早期納品に全くもってたどり着かない。光が見えない戦いだ。
こうなったら、こちらも武器を揃えておくしかない。僕はExcelシートを開き、中谷待ちで生じた時間をメモし始めた。
納期直前のデザイン変更
そうこうしているうちに、納期が迫ってきた。残り3日。納品したサイトは4本中2本。納期ギリギリ、生きるか死ぬかのせめぎ合いだ。
僕は眼を真っ赤にしながら、構築中のサイトにテキストを流し込んでいた。中谷が作った文章を、サイトに1ページずつ挿入していくのだ。1サイトに60ページ程度あるから、それはもう血眼にならないとやっていられない。
「クソが……」
思わず呪いの言葉が漏れ出る。作業時間はぶっ続けの14時間。風呂は深夜にオフィスの流しで頭を洗って終了。睡眠はどうしても無理だと思った瞬間、トイレに行って5分だけ寝る。
「限界……中谷……ぜったい……殺す……寿司……食べたい……」
思考のはざまで浮かんでくる、無能な取引相手への暴力的欲求と、それとは全く関係ない寿司を食べたい欲求。まぜこぜになって垂れ流している僕は、さぞかしキングオブサイコパスに見えているのだろう。
ッターンッ!
Enterキーを叩く音がことさらに大きくなる。ッターン、ッターン、ッターンッ!タン、タン……タンか。タン。焼肉。焼肉といえばタン。タン食べたい。牛タンタベタイ、ギュウタン、ギュウタン、ギュウターンッ!
「しょうきち、うるさい」
「ギュウタン」
「は?」
「いや、すみません。なんでもないです」
「あんた大丈夫?」
「大丈夫です」
僕の思考回路はゴキブリ以下に成り下がっており、思考中に連想したクソどうでもいいことをさらにクソどうでもいいことにつなげるバカの考えたぷよぷよゲームみたいになっていた。
そんな中、携帯が鳴る。忌々しい中谷からだ。
「はい、しょうきちです」
「あ、しょうきちさん。ちょっと大至急、納品を1日早めてもらいたくて」
「無理です」
僕は即答した。今の僕はハイなのだ。怖いものは何もない。寿司を食べたい。
「レクサス・マーケティングさんの役員委員会が明後日にあって、それまでに見せたいんです」
「それはとても素晴らしいことですね。ただ、こんな時期におっしゃられても無理です。物理的に無理です」
「そんなことを言って、大丈夫なんですか?今後の付き合いとかもあるでしょうに」
「そんなことを言われても、無理なものは無理です」
中谷は一方的に電話を切った。知るかこのクソガキめ。僕は寿司は食べたいんだ。
中谷の無理な要求を押し切り、僕らは「定時通りに」納品を達成した。死ぬかと思った。いや、何回か死んだ。それでも気を失ったり激しい動悸に襲われたり襲い来るストレスを猛烈な食欲で跳ね返したりしながら何とか生き延びた。
「これでやっと、いつもの仕事のリズムにもどることができる……」
そう思った。いつもの仕事といっても激務に変わりはない。でも。それでも、僕は嬉しい。中谷とのクソ面倒くさいやりとりとも中谷待ちともおさらばだ。気分は夏休みだ。沖縄にでも行きたいぜ。
そう思ったが、
「納品おつかれ。しょうきちさ、手があいてるならコンサル案件にも入ってくれない?」
いつも冷静だが怒ると何をするかわからない副社長の青井にそう言われ、僕はおとなしく新たな激務へと走り出した。
サイト制作の案件と比較して、コンサルの案件は調査が多い。思考体力が奪われる。いつもウェブサイト調査ツール「Google Analytics」とお友達だ。
コンサルの仕事はシンプルである。「ミーティング」と「資料作成」の2点しかない。逆に言えば、それしか仕事がないのでプレゼン内容や資料に論理的破綻があったら終わりである。コンサルの単価は高いから、何でこんなに高いカネ払っているのにこんなことしかできないんだ!となる。
僕がコンサル案件のいくつかにジョインし始めたころ、中谷から電話が来た。
「急遽、サイトのデザイン変更をお願いしたいのですが」
納品済みの案件に、よくもぬけぬけと要求ばかり言ってくるものだ。
「デザインの修正でしたら1箇所につき3万円頂戴しますが、よろしいでしょうか」
僕もビジネスライクに突き返してやる。すると、
「お金を払ってくださったクライアントからの依頼なのに、そんなに高額な支払いを求めるのですか?」
とのこと。あきれる。
「納品後の修正に料金が発生するのは契約時に送付した契約書にも書いてあります。御社のマネージャーの後藤さんにも既に話しており、了解は取っています。レクサス・マーケティング様は大事なお客様ですが、特別扱いすることはできません」
冷静に返すと、またもやプツンと切る。コミュニケーションの取れないやつ。
その後1ヶ月ほど中谷からの連絡はなかった。便りがないのはよい便り。そう思って仕事をしていたのだが……。
レクサス・マーケティングからうちに「制作担当者が制作を放棄している」というクレームが入ったのは、納品から1ヶ月半後のことだった。僕はトイレで寝ていたところを探しに来たインターンの子に起こされ、社長のデスクに急行した。ふんぞり返る社長に僕は状況を説明した。納品完了した後に、頭脳警察者の中谷から修正依頼が来た。有料だと伝えると電話を切られた、と。
社長はとりあえず事情をわかってくれたようだが、「面倒になる前に状況を改善させろ」とのお達し。これを無碍にすると、とてつもなくヤバイのですぐにとりかかる。
中谷は骨の髄から腐っているやつだった。僕は仮眠直後で少しぼうっとしていたが、確かに殺意が芽生えるのを感じた。
「俺をCCに入れてメールしておけよ。向こうが訳のわからんことを言ってきた時のためにな」
社長はそう言いながら、外回りに消えていった。
レクサスの言い分
向こうの言い分はこうだった。納品後に、修正したい箇所が見つかった。そこで頭脳警察の担当に連絡すると、制作会社が修正をせずにだだをこねているという。だから修正が進まず、せっかくサイトを作ったのにリリースができない状態だという。1ヶ月半も商品を販売できない状態にした損失は大きい。どうしてくれるんだ。
「面倒くせえ……てかうちのせいじゃねえじゃん……」
ヘルプでかけつけてきた上司は、メールを見た瞬間にボットン便所のスメルに襲われたように嫌な顔をする。そうだ。ぜんぶ中谷のせいだ。
「でもさ、これって結構マジで怒ってるよな。冷静に説明しないとガチで炎上するから気をつけろよ」
「わかりました。でも、どうすればいいですかね。とりあえず頭脳警察に連絡しましょうか」
「そうだな。うん、とりあえず連絡しな。中谷ってやつ、やたらと責任逃れするんだろ。CCに後藤さん入れとけよ」
後藤は頭脳警察のマネージャーで、次期役員の筆頭候補と呼ばれる人物だ。彼の見ているメールなら嘘も言うまい。
「了解です」
そういうことで、うちの社長と頭脳警察の後藤をCCに入れた状態で中谷に状況確認のメールを送った。内容は、今回の顛末の説明を、事細かに。
メールを送って中谷から即レスが来ると思ったが、そんなことはなく、僕はすぐさま仕事に没頭した。
今日のミッションは尻拭い案件。上司が放置していたクライアントが火を吹き、なぜか僕がその尻拭いとしてアポに行ってくることになった。6月にサイトを構築して納品するはずだった案件が、12月の今でもまだ終わってない。そして、放置しすぎていたから次に何をどうすればいいかもわからない。クライアントの要望もわかっていない。だから、僕が頭を下げに行って要望を聞き直しに行く。そんなこともブラック企業ならよくあるのだ。
僕だったらブチ切れるような対応をしていたにも関わらず、クライアントは予想以上に優しかった。アポの途中でディズニーランドのおみやげをくれたり、社員の方に絡ませてくれたりした。
クライアントの優しさに包まれてほわほわした気分の中、渋谷の東口方面、ヒカリエのそばにあった銀だこに寄る。銀だこといえば、カリカリモフモフの生地とプリプリのタコである。粉モンを食べたいなあと思った時、食感を求めるならばねぎ焼きでなく、お好み焼きでもイカ焼きでもなく、たこ焼きなのだ(しかし、本当に好きなのは梅田の花だこである)
至福のたこ焼きタイムを味わっていると、中谷からの電話。かわいそうだから出てやることにする。
「はい、しょうきちですが」
「しょうきちさん、何でCCに後藤さんが入っているんですか。何の関係もないじゃないですか」
開口一番、中谷は切迫した口調でまくしたてた。
「確かに、直接の関係はないかもしれません。ですが、今回は当社に直接連絡が来るハードクレームなのです。統括している後藤さんには、状況を共有するのが筋かと思います」
「だからといって、あー、後藤さんはないでしょう。後藤さんは」
おそらく自分のミスが発覚するのを恐れているのだろう。ざまあないぜ。
「先程申し上げたとおり、当社はレクサス・マーケティングから直接お叱りの言葉を頂きました。しかし、当社は案件を頭脳警察社からご紹介いただいている身です。当社とレクサス様の契約は、すべて御社とクライアントの関係性があればこそ。その関係性がゆらぎそうなリスクがあるならば、共有するのは自然ではないでしょうか。それとも、申し上げてはいけない何かが書いてありましたか」
「そ、そういうわけでは……ないですけどね、こっちは礼儀の話をしているんですよ」
「そうですか。では、どんな礼儀でしょうか」
「……詳しいことはまた今度お話します」
と言って電話は切れた。ガチャ切りから少しは成長したらしい。僕は少し冷えたたこ焼きを2つまとめて頬張り、店を出た。
帰社すると、副社長の青いが話しかけてくる。
「しょうきち、アポだ。俺も行く」
「わかりました。急ですね……どこですか?」
「頭脳警察だ。緊急だ」
今、レクサス・マーケティングの経営陣が直接頭脳警察のオフィスに来ているらしい。しかも、しばしばうちに直接連絡をつけてきたチャン一人だけではない、4人もである。よくもまあ、大勢で訪ねてきたものだ……
地下鉄丸の内線に駆け込み、頭脳警察のオフィスをめざす。生ぬるい暖房で頭がぼうっとする。
青井は空いている席にすっと腰を下ろすと、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。目はかっと見開かれ、指は止まることがない。まるで5本の指が独立した思考をもちながら動いているようだ。さすがは外資コンサル出身の鉄人。僕は2徹後の青井にさえ、集中力で勝てる気がしない。
そのとき、青井がいきなり立ち上がった。
「戻るぞ」
「はい?」
「レクサス・マーケティングと後藤さんたちで、うちに直接来るらしいよ。うちの経営陣の顔が見たいとかでね」
「マジすか」
こうして僕らは乗りかけた丸ノ内線で、ふたたび自社オフィスに逆戻り。なんて日だ。
オフィスに到着してからミーティングルームを確保し、PCを開いて待つ。
嫌な雰囲気だ。わざわざうちに来るということは、今回のトラブルの元凶がうちとして見られている可能性が高い。なぜそうなる。後藤には、中谷の返事が遅いせいで納期がギリギリになったことも、納品後の修正は別途料金が必要なことも伝えているというのに。おかしい。
親子3代でクライアントが乗り込んでくる悪夢
30分ほど待つと、頭脳警察とレクサス・マーケティングの面々がぞろぞろと入ってきた。頭脳警察の方からは後藤と中谷。レクサスの方は、バアチャン、オバチャン、ニイチャン、ニイチャン。対するうちは、青井と僕。
通常のアポでは5人程度で使う、うちの会議室はいっぱいになった。無邪気な子供に乱獲されて虫かごの中でひしめくアブラゼミのように、僕らは名刺交換をした。僕はこの作業だけで夏のように汗をかいた。
4人は全員チャンの名字だった。とすると、こいつら全員血縁者か。まさか、3代でわざわざ乗り込んできたというのか。会長の婆あチャン、社長のおばチャン、そして専務の兄チャンが2人。
各々が席につくと、後藤が口を開く。
「突然お邪魔する運びとなってしまいましたが、どうしても御社に直接、制作の段取りについて確認したいと……」
名刺交換で会長だと名乗った婆あチャンが遮る。ラッパーの黒人みたいに貴金属をジャラ付けしていて、スモークのかかった金のメガネ。髪は紫。顔は控えめにいってブルドックのような迫力。
「後藤さん、もういいです。私が直接話します。私たちはね、頭脳警察のことも、もう信用していないんだから」
はあ、と後藤が縮こまる。
「私たちはね、あまりにも案件の進みが遅いからね、わざわざ今日やってきました。仙台からですよ。朝早くから新幹線に乗って。そうでないとね、もう、気分がおさまらないんだから」
ブルドックの婆あチャンは、最初から戦闘モードに入っていた。会議室の重力が2倍になって、部屋が狭くなったように感じる。重い。
「今回はね、意味不明。なんでこんなになっても案件が納品されないのか。おかしすぎる。もうね、私達も堪忍袋の緒が切れました」
納品されていない、だと。バカな。僕らは確かに納品したはずだ。おかしい。認識が違う。何が起こっているんだ。頭脳警察とレクサス・マーケティングの間では、どんな説明がなされていたんだ。
僕は中谷を見た。ひたすらにうつむいている。僕の視線に気づくと目が泳ぐ。こいつか。性懲りもなく。
理由はどうあれ、こうも認識のズレがあるなら制作会社に乗り込んで文句の一つでも言ってやろうという気になるものだろう。今回の経緯が読めた。なら、今回は後藤の手前、中谷に若干のフォローも入れつつ状況を報告しよう。中谷は公開処刑だ。ざまあ見やがれ。
婆あチャンは一通り吠えまくった後、兄チャンにたしなめられて席についた。真っ赤になった顔に、振り乱す紫の髪。ジャラリと鳴る貴金属。ブルドックというよりもゴブリンかもしれない。
「うちの会長がすみませんでした。しかしながら、状況の説明はお願いしたいと考えておりますが、よろしくお願いしてもよろしいでしょうか」
僕がわかりました、と言って立ち上がろうとしたその時。
「この件については私からお話します」
と、突然青井が立ち上がった。そして、表情を変えずにしゃべる彼の言葉を聞いて、僕は叫びそうになった。
「申し訳ございません。全て、当社の責任です。頭脳警察の皆様に、不備は一切ございません」
青井は真顔で言い放った。僕は心拍数が上がるのを感じた。手がわなわなと震える。一体、青井は何を言っているんだ。
手元のPCを見ると、チャットツールで青野から連絡が来ている。見てみると、今回は平謝りしろ、との文字。嘘だろ。
「まあ、そうでしょうね。頭脳警察の中谷さんからもそう聞いていますし、後藤さんもそう仰っていますからね」
婆あチャンがこちらを睨む。
「せっかく来たわけなのだから、制作状況でも聞かせてもらいたいですね。なぜこのような失態を犯したのか」
一斉に皆が僕を見る。なんだ。僕は、何をすればいい。金魚のように口をぱくぱくさせ、周囲を見回すしかない。静かな会議室の中、遠くでクラクションがなるのが聞こえた。視界がかすみ、首筋に汗が流れる。
「概要だけ、簡単に私から。今回の遅延要因は2点ございます。まず、制作のチェックに予想以上に時間を要したこと。もう1点は制作完了のコミュニケーションをうやむやにしてしまったこと。この2点により、スムーズな納品に支障が出ました」
青井から説明が入る。青井は表情を一切変えずに淡々としゃべる。何を考えているのだろうか。
「チェックねえ。そんなこと理由になると思っているんですか。ちゃんちゃらおかしい。あなたたちはサイト制作のプロなんでしょう。チェックくらいまともにできずに何をやっているの」
「申し訳ございません」
青井は深々と頭を下げた。彼の目には光がなかった。子供に首をつかまれ、無表情のまま作業的におじぎをこなす人形のようだ。僕はやっと気づいた。これ、出来レースかよ。
「ほら、あなた」
社長のおばチャンが僕を指さして口を開く。
「ねえ。あなたも、謝ったらどう?」
再度、全員が僕を見る。重い。音のない轟音が僕を通り過ぎていったようだ。僕は7人の視線に縛り上げられながら、なんとか立ち上がった。
「本件を、現場で、担当しておりました、しょうきちです。この度は、本当に、申し……訳……ございませんでした。概要については、青井の報告通りです」
飲み込んだ異物を無理やり吐き出すようにしゃべる。話すことを、体が拒否しているのがわかる。謝りたくない、自分は、自分は悪くないんだ。
「本件のチェックについては、中谷様と連携をとりながら実施をしておりました。しかし、私がチェック依頼のメールを送ったまま、返事がこなくてもそのままにしていることも多く、案件の早期納品という目的を見据えたコミュニケーションとしては、質の低いものだったと、認識しております……」
自分の行動をあらさがしして、それを謝罪した。婆あチャンはフン、と鼻をならして言う。
「私たちはね、今回のサイトが納品されないことで、新規開店した店のWeb集客ができていないんです。納品予定から1ヶ月半たっても終わっていないから、お客も全然はいってこない。頭脳警察がサイトを作れば人が来るって言うからお願いしたのに、何なのかね。一体」
青井と僕は、ひたすらに申し訳ございませんでしたと頭を下げた。
「あなたたち、日本経済を良くするとか経営理念に書いているでしょう。本当にふざけていると思うわよ。あなたたちのせいで、日本経済の一端を担っている私達が、現にこうやって損害を受けているのだからね。ちゃんちゃらおかしいわ。ねえ、ここの社長はいないの、社長は」
「申し訳ございません。只今社長は外回り中でして、経営に携わっている私から、改めてお詫び申し上げます」
「わかったわよ。じゃあ、どうするの、今回の落とし前は」
「全額、お支払い頂いた金額を全額返金いたします」
僕はえっ、と漏れ出た言葉をあわてて引っ込めた。青井は相変わらず、作業的に頭を下げている。
「当然でしょうね。さあ、もういいわ。帰りましょう」
申し訳ございませんでした。そう言いながら、ぞろぞろと帰っていくレクサス・マーケティングの一行を見送った。頭脳警察も続く。僕は呆然としながらそれをながめていた。
中谷はコネ入社だったらしい。頭脳警察に仕事を依頼している、地方の大企業の息子なんだそうだ。クライアントのクレームを彼の責任にして罰を与えるのは体裁としてまずかったのだろう。そのしわよせが僕らに来た。だから、僕らが頭を下げ、中谷は守られた。それだけのことだ。たった、それだけのことなのだ。
レクサス・マーケティングに徹底的に嫌われた僕らは、必死に作った全てのデザインデータを新しい制作会社に譲渡した。その代わりに、頭脳警察からは大学生でもこなせるような小さな案件が依頼され、その売上によって、サイト制作金額の30%程度は取り戻すことができた。きな臭い穴埋めによって、偉い人同士のスーパー予定調和が実現したのである。
これがレクサス・マーケティングの案件の顛末だ。どんよりとした、後味の悪い案件であった。体中がわなわなと震えたあの気味の悪い感触は、もう味わいたくない。
のび太の不幸
後味が悪いのは案件だけではない。日常そのものだ。僕らがあくせく働くうちに、多くの仲間が辞めていった。
一つ、悲しい事例をあげるとすれば、デザイナーののび太の例だろう。デザイナーで唯一の男性社員(男性社員=深夜まで残ってくれる戦士という認識が当社にはあった)として期待されたのび太は、大型案件を遂行中に、システム内に果てしない量のバグをばらまいた。
彼に悪意があったわけではない。もともとバリバリ働くのが好きではなかったのび太に、僕らは自分たちと同じように働くことを強いてしまったのだ。その結果、のび太のモチベーションは富士急ハイランドのドドンパのような急降下を見せ、細部のチェックを怠るようになった。それが悪性腫瘍化し、10人体制での2週間チェックでも完治しないほどの致命的ダメージを生んだのだった。
回復のために、一番事情を知っているのび太は23時まで残らされた(朝になっても帰れない僕らと比較すれば相当な温情だ、と当時の僕らは思っていた)。しかし、彼にとっては会社のことは会社のことで、なるべく関与したくなかったのだと思う。道連れにチェックをやる僕らの苛立ちに彼もいづらさを感じたのだろう。彼は会社に来なくなった。
のび太の携帯に、ひたすらに電話をかけまくる社員たち。のび太でないとわからない箇所がありすぎるからだ。しかし、彼は一向に電話に出る気配がない。ピリピリするムードの中、ギャルのデザイナーのエゴサーチによって、会社の愚痴を垂れ流しつつ、毎日飲み歩くのび太のツイッターアカウントが特定された。
大戦末期のソ連軍によるナチス・ドイツの残党狩りよろしく、憤った僕らは彼らのアカウントにリプライを飛ばしまくる。飲み歩ける元気があるのなら、早く連絡を下さい。当然、アカウントはすぐさま非公開になった。そして、会社に一枚の退職届が郵送で送られてきて、彼はとうとう会社から籍を外すことになった。
のび太のことを「仕事を放棄した悪人」だと認識していた僕は、そのときになっても、自分たちの行動の異常性を知らなかった。働かない者生きるべからず。休むことは反逆罪。見暇必殺。こう叩き込まれてきた僕らは、知らぬ間に、ブラック企業の一部と化していたのだ。
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