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ブラック企業を訴訟に持ち込んで、残業代を取り戻すんだ!
エンジニアのKさんは、僕の前職の先輩で、このブログの読者でもある。いつもアドバイスをくれる先輩で、前職に勤務しているときは何度もお酒に連れて行ってもらった。
「休職してるんだって?」
「はい……」
都内のスペインバルに入ると、早速僕の休職の話題になった。Kさんは僕のブログを呼んでくれているから、僕の心情は既に分かってくれている。僕は今までの苦悩を吐き出した。話すたびに、自分が辛い環境に負けておちぶれていく無能な人間だと思えた。
「大丈夫、今はきつくても、なんとでもやっていけるから」
Kさんは僕のことを励ましつつ、ブラック企業に対抗する術を教えてくれた。弁護士、である。以前法律を学んでいたKさんは、僕に知り合いの弁護士を紹介してくれたのだ。
「今までの残業代、全部計算してみなよ。多分、300~500万くらいになるでしょ。今までやられたことの仕返しくらいにはなるんじゃない?」
はっとした。Kさんの言葉は沈んだ僕の心に一片の光を宿した。仕返し。そう、仕返しだ。馬鹿にされ、落ちぶれ続けた僕でも、捨て身のカウンターという一手があるのだ。
「やります。きっと、やります」
僕の心情は「絶望」から一変し、「復讐」に満ちていた。復讐することで、自分があの会社に在籍していたことを精算しようとしていた。とにかく、早く仕返しがしたい。
Kさんは弁護士の在籍する事務所の連絡先を教えてくれ、アポをとるようにいってくれた。
法律相談所でブラック企業対策
Kさんからの紹介を受け、僕は四谷駅に向かっていた。
多くのビジネスマンが歩いていて、タクシーを呼んでは新宿方面に流れていく。
そんな中、僕だけがパーカーにジーンズで、よくわからない格好をしていた。
小さなビルに「四谷法律相談センター」の文字を見つける。足の遅いエレベーターは7階に向けてじわじわと登っていく。
法律。なんと重い響きだろうか。僕は幸いながら法律に抵触することなく行きてきた。しかし、その未知の領域に、今から足を踏み入れようとしているのだ。
やろうとしていることは悪いことではない、それはわかっている。それでも、なんだか大それた、身の丈にあっていない大きなわけの分からぬものと握手するように思えて、僕は巨大な不安に襲われた。
7階につくと、透明なプレートに「四谷法律相談センター」の文字が印字されていた。僕はどこを見たら良いかよくわからず、どう入ったらいいかもわからなくて、オフィスに踏み入れた右足を伸ばしたり引っ込めたりした。
「どうなさいましたか」
受付の女性から声をかけられる。僕は、なるべく平生を装って「予約したしょうきちです」とこたえた。
案内されたソファでの長い長い5分間のあと、僕は個室に通された。個室はガラス張りでありながら、絶妙なすりガラス加工がしてあって、相談者の顔は外から見れないようになっている。なるほど、プライバシーと透明性のせめぎあいとはこういうものなのか、と思った。
軽いノック。僕がはいと答えると、40代くらいの男性が入ってきた。胸には、弁護士バッジ……!
ブラック企業社員の法律相談
弁護士バッジが輝いている。僕の目の前にいらっしゃるのは、まさにそう、弁護士先生。
グレーのスーツに、僕より少し高いくらいの背丈。柔和で優しそうな方だったのだが、僕の心境はというと、
うわあ……
だった。震えていた。
何も弁護士の方に不安を感じただとか、嫌な気分になったとかそういうことではない。迫力に震えているのだ。
会社に向けた闘志はなんというか、風前の灯レベルに消えそうだった。法律という、巨大で質量感のある矛をもたげた関羽雲長を目の前にしているのだ。僕の思考は黄巾の一兵卒よろしくスッパリキッパリ停止した。
こんにちは、お話は聞いていますよ。弁護士の長澤です。
名刺をいただく。これはすごい。弁護士の名刺だ。すごい法律パワーが込められている感じがする。
永遠に感じられそうな自己紹介のあと、僕は席につき、現状を報告した。
月500時間の労働はなかなかですねえ……。十分に悪質です。しかも、社員に対して罵詈雑言ときている。それは体も心も壊しますね。
長澤先生は最初は恐ろしかったが、彼のやわらかなカウンセリングに僕は次第に心を許し、全てをぶちまけていった。
大丈夫、そこまで無茶な働き方をさせることは、法律が許しません。それに、他の社員の方も、同様に苦しんでいるのでしょう。彼らを救うためにも、がんばりましょう。
先生は僕の肩をたたいてくれ、笑いかけてくれた。
今までやられた分、やり返しましょうよ。
救われた。僕は緊張が一気にほぐれた感じがしたのと、仲間が増えた感じがして、温泉にでも入ったように心が安らいだ。
面談の最後に、長澤先生は次にやるべきことの指示をくれた。やることは一つ。今まで超過時間働いてきた勤務時間を証明できるものを、なんでもいいからまとめること。
一緒に頑張りましょう。
見送ってくれる長澤先生の笑顔を背中に、僕はエレベーターを降りていった。
裁判の準備をしよう
僕は先生に言われるがまま、裁判の準備にとりかかった。
ブラック企業を許すわけにはいかない。どうにかして、社会的な制裁を加えてやる。そう思いながら、PCを開き、当時のデータを探し始めた。
当時、僕の予定は全て会社のGoogleカレンダーに記録していたから、そこを開いてキャプチャを取る。そうすれば、僕の異常な残業実態はすぐに明るみに出ると考えた。
1ヶ月毎のキャプチャを入社から今までとるだけ。そんな簡単な仕事だと思っていた。
しかし。
会社からの妨害
なぜか、自分のGoogleアカウントが開けない。会社の情報にアクセスできないのだ。冗談ではない。ノートパソコンに置いた手が止まり、目が泳ぐ。
なんということだ。まさか、会社は僕の動きを予想していたのか。
ブラック企業といえど、さすがはエリート集団の集まりである。嫌なところで仕事が早い。
一瞬で終わると思えた残業記録の収集は、いきなり頓挫した。
証拠収集の方法を改めて考えねばなるまい。
メールアカウントさえも確認できず。証拠を集められない
ネットで調べていると、メールのやりとりも業務時間の証明になることがわかった。やりとりをしているのなら、少なくともその時間帯は働いているだろうということらしい。
しかし、そもそもGoogleアカウントにログインができないから、メールを見ることもできない。
こうなると会社の入退室の情報をもらう、という方法になるのだが、うちの会社にはタイムカードもなければ出退勤管理すらもない。
過剰残業を示す、ログを取る手段が、ないのだ。
精神的に参っていた僕にとって、この途方もない証拠探しはとてつもなく苦痛だった。裁判判例と法律の条文の間を右往左往する日々は、誰も解けない方程式を延々と解くような孤独な戦いだった。
なぜこんなことをしているんだろう。
法律を守らないのは会社なのに、なぜ僕がこんなことをしなければならないのか……
証拠が揃わないことには裁判は戦えない
弁護士のもとには何度か通った。しかし、メールも、出退勤記録もなく、僕の武器に成る情報はほぼなかった。
最初は柔和に対応してくれた弁護士先生も、段々と顔が曇ってくる。
「しょうきちさん……もう少し頑張って証拠を探してください」
先生はため息を吐き出すように言った。しかし、僕はどうすればよいのだろう。アカウントをロックされ、ログが取れない僕にとって、証拠を探すことは困難だった。
いや、困難というより、苦痛だった。
辛いのだ。この作業が。終わりのない消耗戦だ。
弁護士先生へのプレッシャーと、見つからない証拠に挟まれているこの状況から、僕は逃げたかった。
ブラック企業からのメール、そして退職届
そんなある日、ブラック企業からメールがあった。
手続きの関係で、一度出社していただけませんか?難しいようでしたらカフェでも構いません。
最近入社した、メガバンク出身のマネージャーからの連絡だった。
思えば、僕は病気を理由に休職をしたまま。退職の手続きはまだとっていなかった。
こんな会社に居続けるつもりはなかったので、僕は「承知しました。カフェでお願いします」と短く返信した。
カフェに出向くと、マネージャーは大きな紙袋を手にしていた。
紙袋には僕の使っていた寝袋、マグカップ、シャンプー等と、会社に泊まり込むためのグッズが入っていた。手に取ると、ずっしりと重い。
これが僕の戦っていた印なのだ、と思った。
キーの印字がかすれたダイナブック、交互にたまっていレッドブルとモンスターエナジーの空き缶。枕代わりにも使った資料ケース……
めちゃくちゃな戦いの日々が、もうすぐ終わるのだ。
マネージャーはテーブルの上に退職届を広げ、こちらにペンを渡してきた。
力の入らない指で、なぞるようにサインをする。
はい、どうも
マネージャーはお釣りの小銭でも受け取るように退職届をしまいこんだ。
情報保護規約
マネージャーの機械的な手続きは続く。
手渡されるのはハローワークの資料。それからよくわからない文書を何枚か。
お互いの意欲を限界まで削ぎ落としたような、無味乾燥な手続きが30分ほど続いていく。
最後に、「情報保護規約」と書かれた紙が渡された。
情報保護。僕は紙に顔を近づけ、文字の羅列を凝視した。
書類には、
会社の誹謗中傷について、ネット上に書き込まない
法律関係事務所に訴えない
などとあった。
会社にとって都合の悪い情報を隠し、その漏洩を守るための規約。それがA4の両面にびっしりと記載されていた。
ここまで労働者をこきつかっておいて、都合の悪い情報は漏らさないように念を押してくる会社。
僕は急に腹が立ってきた。
全てを会社の都合の良い話でうまくまとめていきたい、というような、自分勝手な論理がある。それに僕は絡め取られ、うまいように扱われている。
屈辱だ。この憎むべき事実が僕の脳内を支配して、僕の思考は停止した。
残業代、今まで支払われていませんよね。
僕は咄嗟に言った。
36協定を結んでいるので残業代は問題ないはずですよ 。もしもそちらが法的手段を使ってくるのなら、こちらも容赦はしませんけどね。
と、突き放すように言ってきた。
僕は突然怖くなり、
検討します
と一言だけ言った。それしか返せなかった。
マネージャーの目は泳いでいるようにも見えた。でも、僕は36協定なんて何かわからず、どう対抗すれば良いかもわからなかった。
敗北
僕は何もできず、私物の入った重い重い紙袋を抱えて家に帰った。
勝てるかどうかもわからない、証拠も揃いそうな戦いに、僕は挑むべきなのか。
そう思うと、裁判をやろうと意気込んでいた気持ちも萎えてしまった。
弁護士の長澤先生にもなんと言っていいかわからず、相談の予約も取れなかった。
打つ手がない。
僕はブラック企業に負けたのだ。
思わぬスカウトメール
失意の僕は、悩んだ末、ビズリーチという転職サービスを開いた。
とりあえず転職サイトでも見て、前に進んでいる気分になろうと思ったのだ。
ビズリーチの特徴は、企業からのスカウトが来るという点で、今では主流になった企業からのスカウト機能をいち早く本格始動させたサービスだった。
そのメールボックスの中に、一通のスカウトを見つけた。
募集職種は人事係長候補。勤務地は、なんと宮崎県。
文面には、
是非お話したいので、電話で15分時間を頂戴できないでしょうか。
との文字。
これを見た僕の心は躍った。学生時代の友人も宮崎に移住して楽しそうにしている。
わけのわからないブラック企業に所属したことで、職歴に傷をつけることになってしまった自分。
自分が人事となり、自分のような人間を、少しでもなくしていけたら。
そう思い、僕はスカウトメールに返信した。
スカウトメールをくれたのは、某サービス業の人事次長だった。電話での面談では、僕のことをいたく気に入ってくれ、ぜひ会って話したいと言ってくれた。
これは自分にとって結構貴重な体験だった。というのも、転職サイトのスカウトメールというのは基本的に「形式的」なもので、単純な応募の勧誘でしかない。スカウトメールを受信したにも関わらず、「選考の結果、お見送りになりました」等と書類選考で不採用になるケースも多い。
だから、今回のようなガチガチのスカウトにあたったことで、僕の気分は高揚した。
ブラック企業に使い捨てられて、新卒3年目で2度目の転職活動。そんな僕をいたく気に入ってくれる会社があった。この事実は、傷ついた僕の心をサロンパスのように優しく包み込んだ。有効成分が物凄く染み込んでくるのを感じた。
こういう時、やるべきことがある。向こうが会いたいと言ってくれたとき、こちらも物凄く会いたいと言ってやることだ。僕はすかさず電話した。
次長、私、九州に行きます。ぜひ早く会って御社のことを知りたいので、お時間をいただけますでしょうか。
この電話は効果テキメンで、丁度福岡で合同転職フェアをやるから、そこなら会いやすいだろうと場所を指定してくれた。
でも、まだまだ選考が進んでいるわけじゃないから旅費は出ませんよ。それでも大丈夫かな?
問題ございません。ぜひ御社の事業所も回っていきたいと思いますので!
その時の僕は、例えるならきっと、やる気に満ち溢れた純粋なるモチベーションの塊であり、アホと無垢の濃縮ブレンドであった。
いざ、九州
1週間後、僕はジェットスターに乗り、福岡駅のアミュプラザにて次長たちと会った。人生2回目の九州。ブラック企業の夏休みで由布院やら別府やらを回った以来だ。メシがやたらとうまく、温泉があり、過ごしやすい。
会場に入ると、次長は採用担当の管理職の女性と一緒に僕を迎えてくれた。
ようこそ九州へ!
次長は初対面の僕に対して、陽気に言った。少し背が低く、お腹がぽっこりと出ている。その体型と丸メガネと柔和な表情から、まるで「メガネをかけたスーパーマリオ」のようなとっつきやすさを感じた。
僕はブースに案内され、次長と女性と一緒に1対2の面談を受けることになった。
面談と言いつつ、それは完全に面接の体だった。
退職理由などについて、職務経歴書を見ながらつぶさに聞かれた。僕はなかなかに緊張したが、ブラック企業での苦労があったことを詳しく伝えた。もう長時間労働はできない、月に500時間も働くことなんて無理だと正直に伝えた。
私はこれ以上、死にそうになりながら働くのは難しいです。ですから、挑戦できる裁量がありながら、社員の負荷を受け止められる企業体力がある御社は、私にとって貴重な職場なのだと考えています。
これは僕にとっての賭けだ。
職歴を汚した僕ができることなんて、死にものぐるいで働くことくらいだろう。しかし、僕は自分でそのカードを捨ててしまった。長時間労働はできません、過度な残業もゴメンです。そう、明確に宣言してしまった。
これを聞いて、おそらく多くの面接官は「こいつ面倒くせえな」と思うだろう。しかし、こうでも言っておかないとホワイト企業にはたどり着けない。これで嫌がられたら、それまでだ。僕は息をのんだ。背中に汗をかきながら、次長の返答を待った。
いいじゃないですか。私もね、前の仕事で働きすぎて、体を壊したんですよ。
次長は柔和な顔を一層にしわくちゃにしながら、僕に笑いかけてくれた。
長時間労働については心配いらない。うちはきちんとタイムカードも使っているし、上場企業だから、無茶をすると労基に怒られてしまう。残業代はきちんと出るから心配しなくてもいいよ。
何ということだ。
これが噂でいう、ホワイト企業というやつなのか。
僕は息をのんだ。捨てる神あれば拾う神あり。
ついに神は、僕をブラック企業の地獄から救ってくれるのだ。